知的障碍者支援員の給料の手取り十数万円の安さと事件について思う。
個人的に関心の強い保育心理から始めようと遺伝説のルソーゲゼルに引き続き、環境論のロックに進もうとして「この分類っておかしいんじゃないの?」と薄々思っていたことがハッキリとしてきて、いきなり失速しております(;´Д`)

別に保育士にはそこまでの知識や解釈は要求されないんだから、、、と思う反面、自分が納得できないことをそのまま語ることはできぬ、、、ぬぬぬ。まぁ現時点ではそういうネタは誰も待ってないだろうからゆっくり進めますわ。目標は明日まで。

そんなわけで勉強ネタとは別の雑談ネタ?が続きます。(アナリティクスによる分析では明らかに雑談ネタの方が読んでくださる方が多いというのもある)

雑談ネタだけど、、今日はちょっと重い話で。

昨日の昼頃、Yahoo!ニュースで見た
相模原殺傷2年 明かせぬ実名、遺族のジレンマ 障害者への差別…消えぬ不安」というタイトルの記事。相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で平成28年、入所者19人が刺殺されるなどした事件です。

私は関係者でもないし、やまゆり園がどんな所なのかも知らないし、どんな理由があれ犯人のやったことは許されることではないと思ったし、今もそう思うけれど。

自分も社会福祉士の資格を取るために知的障碍者の施設に実習に行ったことがあるので、この問題は異常な人が起こした異常な事件で片付けられないと感じたのです。

私が行ったところは、実習生を受け入れるだけあって色々良心的な施設だっただろうと思う。指導してくださった先生方も、誠実でやさしそうな方々だった。
実際、実習で関わった入居者の方々はそれぞれの能力に応じて仕事をしていたし、比較的能力の高い方は自分の仕事に責任感や誇りをもって取り組んでおられるなとも感じた。

施設自体も、古くはあったけれど清潔でいろんな経験を積み重ねながら入所者の方々のためによく考えられて作られてると感じた。

でも、、、重度の障害を持っておられる方とはやはり意思疎通というようなものではなく、、
特にとある男性入居者に気に入られて付きまとわれてしまうと、かわいい子供のような人と思えるわけもなく、ただただ恐怖でしかなかった。

暴力をふるうような人はいなかったけれども、バカだのアホだの悪口が飛び交う様を見ると、こんな言葉しか覚えられないんだろうか?とげんなりした。

数日の研修では一人一人に思い入れを持てるはずはないと思いつつも、自分は意思疎通ができない人のために尽くせるほどの優しさはない、ここで働きたいか?と問われたら、軽度の方ならともかく、重度の人のお世話はとても考えられない、無理、としか言えないことを認めざるを得なかった。

それでも、そんな私でも仕事として条件が良ければ、割り切ることはできるかもしれない。
でも、この賃金で?仕事として魅力を感じることができる者はいるのか?

仕事の尊さはお金や評価で測るものではないとは思いつつも、本人からも、預ける家族からも感謝されることもなく、社会的評価のバロメーターとなる賃金も低いのではよほどの聖人か、聖人もどきか、この仕事以外の仕事ができないかのいずれかになっていくと思う。

やまゆり事件の犯人は話にもならないけれど・・・
福祉を聖人に期待するこの国は、聖人になりたいと願う人をつぶす国だと思う。

保育士だって、しかり、、じゃない?ほんと、給料の水準としてはほぼ同じぐらい。
知的障碍者のような大変さはないけれど、小さいこどもの命を「絶対」守らなければならない、その責任の重さに対する賃金とはとても思えない。

でもこの手の話をすると必ず出てくる「どこからその賃金アップ分のお金が出るの?」という問い。

それは、何を大事にしようと思うの?という問いの答えに他ならないんじゃなかろうか。
そういう問いが出てくること自体、お金を生み出さないものにはとことん冷たい資本主義の露骨な一面を見るような気がする。

まぁここで一人吠えても何も変わらないので、選挙にはこれからも必ず行こうと思ってるけど。
(唐突かもしれないけれど、民主主義国家なのだから、まずは選挙、デモとか署名はそのあとの話、って私は思ってる。)

この記事書いている途中で、また別の記事が上がってた。
やまゆり事件の被告手記、説明付きで出版 刊行に抗議も

いろんな人がいて、いろんな考えがあっていいと思うけれど、、風化させないために出版するというのが本当の目的ならば、2年でなくてももっともっと後でもいいという気がする。
2年あればそろそろ当事者の気持ちは落ち着くだろうって考えたのかな?
それとも当事者の気持ちは無視してでも、早く世に問わなきゃいけないと思ったのかな。

少なくとも、私はいまだに「意思疎通が取れない人間を安楽死させるべきだ」なんて言ってる人の手記を読みたいなんて思わないな。
そんな胸が悪くなるような思想を聞かされなくても、自分もしくは自分の愛する人がここで生きるということを想像できる人ならば、福祉の現場に行きさえすれば「これでいいのだろうか?」となにかしら考えずにおれなくなるに違いないのだから。
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