Ballet tiara shop Esther

besuoは右が感音性、左が伝音性の難聴がありまして、良いほうの左に補聴器を付けて生活してます。

物心ついたときから兄が言語訓練をしているのを見てきたので、耳が悪いと大変だぁぐらいに思っていたのですが、
小学3年生になったある日、「besuoも発音がおかしい」「補聴器を付けた方がよい」と母から言われ。
その時初めて自分もまた聴こえていないという事実を知ったのでしたorz
自分はそんなに聞こえてなかったの?恥ずかしい発音だったの?とものすごくショックで・・・

自分が親になってみれば、当時の母が「兄ばっかり心配してきたけれど、この子が友人関係がうまく作れないこととか、忘れ物が多いこととかいろいろ気になることがあるのはやっぱり聞こえの問題のせいかもしれない」「これから勉強ももっと難しくなるから今からでも何とかしないと」等、色々悩んだ上に言ったことなのだろうなと思えるけど
そこは小学3年生、やっぱりある日唐突に自分もダメだと言われてしまった辛さで、、、補聴器はともかく、発音訓練の方は受け入れることができず。
いまだに発音の悪さは残ります(特にい行)

まぁでも今は言葉ってのは伝わればいいと開き直って、初対面の人にも「耳がちょっと遠い江戸っ子ばばあみたいなもんだと思ってください」と図太く言えるようになったからいいんだけどね。

 

そんなわけで、補聴器をしている人を見かけると勝手に親近感がわく私。
息子の通っているスイミングスクールでカラフルで明るい色の補聴器をつけている子がいたから話しかけてみたら、それは補聴器ではなくて人工内耳なんだそう。
お調子者で、甘えんぼで泣き虫な者同士気が合うのか( ̄▽ ̄;)子ども同士すっかり仲良しになったからお母さんとも色々お話しするようになったのだけど、Y君はなんと聾(ろう)なんだと。
(聾唖(ろうあ)者の“唖”は話せないという意味なので、聾。)

わたしより発音きれいじゃないかΣ( ̄□ ̄|||)

言われなきゃそこまで重度の聴覚障害を持っているなんて分からない。
更衣室のざわざわした中では私の方がよっぽど話聞き取れてないしorz

小学2年生の聾の子どもがここまで普通に意思疎通できるとは・・・!!
人工内耳、そんなに発達してたなんて。。。\(◎o◎)/!

それでお母さんの話を聞いてみたら、まず手話で意思疎通できるようになってから、子どもの言いたいことを探って、正しい言葉を教えていくという相当な努力と時間が必要だったそう。
やっぱり機器の進化だけで皆が皆ここまで来れるわけではないんだなぁ。

このスイミングスクールに通う前に他の何件かのスイミングスクールに断られたんだ、という話をしながら、Y君のお母さんは悔しそうでもなく、かといって諦めているという感じでもなく。
今このスイミングスクールで良い先生方に教えてもらえて良かったと言う自然さに、こういうお母さんだからできたことなんだろうなとなんとなく合点した。
勿論いろんな訓練を乗り越えることができる賢さや忍耐強さ等をY君が持っていたということもあるとは思うけれど。

子どもは自分の訓練の先が見えないから、その先が見える大人が強い意志を持たなければできない。
でも人間だもの。自分がこれが正しい、と思って進んでいく道が、もしかしたら間違っているかもしれない。
子どもを教育することの難しさってまさにそこにあると思う。
その子が何を持っているか、持っていないかも分からないのに、本人の意思を大切にしたいと思っていても、それをさておいて無理やりでもやらせる・やめさせる選択を迫られることもある。
迷いの中で、子どもの様子を見ながら臨機応変かつ無我夢中で進んで行くしかないんだろうな。

 

小学3年生の時に、母の思いを分からずに発音訓練を続けることができなかった私。
今振り返ってみれば、ふてくされる私に母も相当辛かっただろうなぁと思う。
小学3年生にもなれば自分なりの世渡り方法ができちゃってるし、補聴器つける前と付けた後と何かが劇的に変わったという意識が本人には無いので(周囲にはあったかもしれないけど)この時期に訓練しても、その労力に見合うだけの何かが得られたかどうかわからないという意味ではそれはやめても構わなかった訓練なのだろう、とは思うけど。

・・・それでも発音がいいに越したことはないと思うし、Y君のお母さんを見ていたら、母のために頑張れていたらよかったな、とちょっと心が痛むのだ。
そして、補聴器は私がどんなに嫌がっても譲らずに、目立たないように小さいタイプを選んだり、素敵なケースの方を選ばせたりして気持ちを上げながら、無理やりにつけさせてくれたことには本当に感謝している。←もう手放せない

 

今Y君はカバーを買ってもらって、水の中でも機械を付けたまま入れるようになった。
音としては近くの音しか拾えない上に、かなり高額なものらしいけれど、補聴器と眼鏡をはずしてプールに入るとヘレンケラーな気分が味わえる私にはそれがとっても画期的なものであることがよく分かる!
Y君のお母さんの決断に拍手喝采!!!


親の愛と技術の進歩の中で、子ども達の可能性がさらに広がりますように。

さ、我が子もしっかり育てなきゃ!( *´艸`)

 

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コメント一覧
  1. blank batticprop より:
    とてもいいお話をありがとうございます。

    障害のことについて何か書くのはそれでない者から考えると、
    何もわからないくせに自分ごときおこがましい、とつい思ってしまいます。
    だからとても難しい。
    安易な同情も書けない気がします。


    でも、子供にたいして、

    >子どもは自分の訓練の先が見えないから、その先が見える大人が強い意志を持・・・・・・・迷いの中で、子どもの様子を見ながら臨機応変かつ無我夢中で進んで行くしかないんだ

    には本当に同意です。
    その訓練とかしつけとか何であれ、大人もし
    ょせん不完全な一人の人間だものね。
    でも親だからがんばれる。
  2. blank esther より:
    batticpropさん、持っている人は持たざる人になんて声をかけたらいいか迷う、、というのは確かにありますよね。
    私も聴覚障害については兄と自分というレベルの違うハンディキャップの持ち主の当事者であり、家族であり、、ということで話しやすいということはあるけれど、これが違う障害だったりするとやはり同じように何を話せばよいのかと戸惑います。
    思うに同情することがためらわれるのは、相手が何を困っていて、どういったことを必要としているかということが分からないからじゃないだろうかと思います。
    同じような障害を持っていても、その人がどれだけ助けを必要とするかということは人それぞれ、そう考えると関係を持つ中で、大変なんだなぁ。。ということが分かった時に同情する、でいいのだと思います。
    そこらへんは障害があろうとなかろうと一緒かなと思う☆(*´ω`)
    ただ、見知らぬ外国人に話しかけるのと同じで、色々話せるようになるまでは通じ合えなかったらどうしよう、、と不安にはなりますねorz
    相手が「〇〇さん」という人ではなく、障害者の方、である間は仕方がないかと思います。。。←ミもフタもない回答ですみません爆

    子どもの教育については、色々考えます。
    そして、自分は何をしてやれるだろう?自信ない、とすぐ思っちゃう。
    でもおっしゃる通り、不完全自覚しながらも親だから頑張れる。
    ダメダメ母だけど、お母さんなりに一生懸命やったんだなぁって子ども達に思ってもらえるように頑張ります(;^_^A
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